本のいぬ

本のあいだをふらふら歩く、 のらいぬ澤 一澄 (さわ いずみ)の書評ブログ

『誓いの精神史 中世ヨーロッパの〈ことば〉と〈こころ〉』岩波敦子著

419opdbgozl_aa240_誓いの精神史 中世ヨーロッパの<ことば>と<こころ> (講談社選書メチエ)』 岩波敦子著 講談社(講談社選書メチエ) 、1,575円    西洋世界での声に出して言う「誓い」の言葉というと、日本で一番多く目にするのはキリスト教式結婚式での新郎新婦の誓いだろう。  西洋では、伝統的に口に出して言う誓いはとても重いものだ。人が一度口に出して言った誓いの言葉はその人と周囲を呪縛し、取り消すことができない。それには社会での信頼と名誉を懸かっている。中世の西欧世界では、誓いを破ったり偽りの誓いを述べたりすると神の罰と社会的制裁が待っていた。だからこそ裁判には原告、被告、証人の宣誓が不可欠なのだ。この本では西欧中世における誓いとそれをめぐる社会、政治、人々の心を西洋史家、岩波敦子が語る。  西欧の中世初期、裁判で原告と被告の宣誓が違っていて穏便に解決できない際は神明裁判、すなわち神の意志にゆだねる裁判が行われた。多くの場合は原告と被告の決闘である。古いゲルマンの慣習に根をもつ。神の意志にそって正しい者が勝つとされた。しかし現代の日本人から見れば、それでは嘘の宣誓をしていたら、決闘で正しくない者が勝ったら、と思うだろう。西欧中世でも口にした誓いが真実であるかどうかが重視されていくようになった。そしてキリスト教の浸透は神明裁判を制限し、誓いを神と聖人、聖遺物にかけてするものに変えた。書き物が普及するにつれ、裁判では証言と同じく証文が重視されるようになった。やがて近代化によって裁判や決闘は国家が取り締まるところとなり、現在では神明裁判は過去のものとなった。  それでも西洋世界では、今日までも誓いは重要だ。「言葉には魂が宿る」、つまり言霊は日本の伝統にもある。しかしそれを厳しく人を律するものと見る西欧と、あいまいさを持たせる日本。言葉とは使い方によってこうも違う。 (掲載:『望星』2007年12月号、東海教育研究所より一部改変)