本のいぬ

本のあいだをふらふら歩く、 のらいぬ澤 一澄 (さわ いずみ)の書評ブログ

『父のトランク ノーベル文学賞受賞講演』オルハン・パムク著、和久井路子訳

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父のトランク―ノーベル文学賞受賞講演

オルハン・パムク

和久井路子訳

藤原書店、1,890円

 ある日、作家オルハン・パムクの仕事場に父がやってきた。父は小さな黒いトランクを持ってきていた。父は言った。「ちょっと見てくれ」とやや恥ずかしそうに「何か役に立ちそうなものがあるかもしれない、その中に。もしかしたら死後、お前が選んで出版しても」。トランクの中身は、父が若い頃から書きためていた文章だった。父は作家になりたいと思ったことがあったが、結局ならなかったのだ。

 オルハン・パムクは、トルコの作家。『私の名は紅』などの作品で知られる。2006年、トルコ人で初めてノーベル文学賞を受賞した。この本の表題作「父のトランク」はノーベル文学賞受賞講演である。この本には他に、書くことと作家をテーマとした講演が2つ、ノーベル賞授賞式直前インタビュー、来日した際に催されたパムクと作家佐藤亜紀との特別対談が収めてある。

 オルハン・パムクイスタンブールの裕福な家に育った。父は西洋に憧れ、フランス文学に傾倒していた。1,500冊からなる書庫があり、パムクはそれに親しんで育った。父は文学を愛していたが、人生を楽しむことも愛していた。人と話し笑い合うことを楽しんでいたのだ。

 息子パムクはそうしたものに背を向けて、孤独のなかで自分に向き合ってひたすら書き続けた。なぜ書くのか。書きたいから書くのだ。自分にとって書くことは表現であり習慣であり信念であり怒りであり現実に耐えるためだ。夢の中でのように、行くべきところがありながらいつも行き着けない、そんな思いから救われたいから書くのだ。どうしても幸せになれないために、また、幸せになるために書くのだ。

 そうしたパムクに父は反対しなかった。パムクは部屋にこもって書き続け、やがてできた第1作を真っ先に父に見せた。読み終わった父はパムクをしっかりと抱きしめた。

 父はトランクをパムクの仕事場に持ってきた2年後に亡くなった。

 作家にならなかった父と作家になった息子。父と息子の郷愁は洋の東西を問わずか。

(掲載:『望星』2007年11月号、東海教育研究所を改変)