本のいぬ

本のあいだをふらふら歩く、 のらいぬ澤 一澄 (さわ いずみ)の書評ブログ

『緑の影、白い鯨』レイ・ブラッドベリ著、川本三郎訳

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緑の影、白い鯨

レイ・ブラッドベリ

川本三郎

筑摩書房、3,675円

 

 

 1953年、33歳のレイ・ブラッドベリアイルランドを訪れた。税関で訪問理由を問われると彼は言う。

 「狂気です。2種類あります。文学的狂気と心理学的狂気です。まず、私がここに来たのは白い鯨の皮をはいで脂をとるためです。」

 新進作家のブラッドベリは著書『火星年代記』を映画監督ジョン・ヒューストンに贈呈していた。ヒューストンは『マルタの鷹』『アフリカの女王』などを手がけ、すでに巨匠だった。ブラッドベリはヒューストンに見込まれて映画『白鯨』の脚本の依頼を受けた。そして彼の住まうアイルランドへ、その原稿を書きにアメリカからやってきたのだ。

 西のはての島アイルランド。鮮やかな緑を見せたかと思うと突然嵐がやってくる。憂鬱な空に憂鬱な人々。滞在した首都ダブリンでブラッドベリは、あるパブの常連になる。そこに集うのはシニカルで饒舌な呑んべえたち。ほかにもさまざまな人に出会う。世にも悲しげで悲惨な運命をたどる辻音楽師。天使のような赤ん坊を演じる40歳の物乞い。

 一方、ジョン・ヒューストン監督はかなりな難物だった。らんちき騒ぎ好きで女好き。派手なことが大好きで酒豪。乗馬と狩りが好きでブラッドベリにもむりやりやらせようとする。人生海千山千の彼にとって若いブラッドベリは、かっこうの遊びの種だった。ブラッドベリはヒューストンにからかわれ、だまされ、泣き出してしまうこともしばしば。彼にとってヒューストンはエイハブ船長と白鯨モビーディックを会わせたくらい怖ろしく、扱い難く、そして魅力的な男だった。

 そんななかでもブラッドベリは『白鯨』の原作者ハーマン・メルヴィルが降臨してきたように脚本に没頭した。

 ブラッドベリはパブの仲間に演説。

 「偉大なる神よ、あなたは間違っている。あなたはどこにおられるんです? どこでもない場所から北に9,000マイルのところにある小さなしみのような島のどこに!! ここにどんな富があるというんです? 何もない! 天然資源は? たったひとつ、あるだけ。私の会ったすべての人の、豊かな資源にあふれた才能、黄金の心! 目を通して外を見つめる心、針の穴ほどのささいな出来事にも反応して舌からころがり出る言葉!」

 それはブラッドベリの人生の一季節だった。緑の島とそこに住む人々、そして恐怖の白い鯨とそれに執念を燃やす荒々しい魂との格闘。確かにそのときブラッドベリは手を焼きながらも彼らの虜になったのだ。