管 啓次郎著
左右社 1,890円
「本は読めないものだから心配するな。」
この本を読め、この本はこう読め、成功する読書のすすめなどと、読書をしていかに得をするかというような本ばかり出まわるなかで、こう言われるとほっとする。ひとりの人生のなかで読める本、得られる情報の量など限られている。読まなければいけない本がたくさんある、本を読んでも理解できない、昔読んだはずの本の内容を忘れてしまった、と読書の悩みはかずかずある。
文学研究者で翻訳家の著者、管啓次郎が言うところによると、読書とは、現在の時間を使って過去の痕跡をたどり、その秘密をあばき、未来への道を拓く行為。その時ものをいうのは記憶力。しかし人の記憶力ほどあてにならないものはない。読んだ本の内容を忘れてしまったら、読まなかったことになってしまうのか。いや再び読めば、最初に読んだときとは違う理解があるだろう。読書は道に迷いながら森を進むのに似ている。
さらに一冊の本を読み終わったら読書は終わり、というわけではない。一冊の本は別の本と、その本はまた別の本と関係している。本は一冊では完結しないのだ。読書には終わりはない。
著者は読書を「楽しい」とは思わない、と言う。この本はいちおう書評集で、多和田葉子、森山大道、ル・クレジオなどの作品にふれているが、書いてあるのは作家と作品についてよりも、著者自身が抱いている本とそれを読み解くことへのあふれるばかりの愛着だ。
「いったいこの言葉は何なんだろうと驚くような言葉に出逢いたい。分からないことが星のようにキラキラちりばめられた空を旅してみたい」。
本に出逢いたい。言葉を理解したい。すべてはこの思いのために本を探す。そして、その本と出逢うことから読書は始まる。
(掲載:『望星』2010年4月号、東海教育研究所)