本のいぬ

本のあいだをふらふら歩く、 のらいぬ澤 一澄 (さわ いずみ)の書評ブログ

『カントリー・オブ・マイ・スカル 南アフリカ真実和解委員会〈虹の国〉の苦悩』アンキー・クロッホ著、山下渉登 訳、峯 陽一 解説

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カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩

アンキー・クロッホ著

山下渉登 訳、峯 陽一 解説

現代企画室、2,940円

 2010年のサッカーワールドカップ南アフリカで開催されたなんて、20年ほど前だったら想像できなかっただろう。1991年、南アフリカアパルトヘイト政策は廃止され、1994年、全人種が参加する初の選挙でネルソン・マンデラが大統領に選ばれた。南アフリカの人種の割合は黒人約8割、白人約1割、ほか混血、インド系など。マンデラは、南アフリカを「虹の国」たくさんの民族が協調する国、と呼んだ。そしてアパルトヘイト政策の暴虐をさらし国民の和解のために真実和解委員会の実行を指示した。

 南アフリカは、もともと多様な黒人部族が住んでいたところへ1652年、主にオランダの白人が入植した。彼らが後にアパルトヘイト体制の中心となるアフリカーナーだ。その後、イギリスとの戦争に負けて植民地とされた。1948年、政権を握ったアフリカーナーの国民党はアパルトヘイト体制をしいた。それは、人口の1割を占めるにすぎない白人が国土の9割を支配し、他人種の自由を制限する体制だった。

 国政を支配したアフリカーナーだが、その多くはプアホワイトで農民だ。この本の著者、アンキー・クロッホもアフリカーナーアパルトヘイトを批判するラジオジャーナリスト。真実和解委員会の取材にはりついていた。真実和解委員会は委員長、デズモンド・ツツ大主教ほか17人の委員。1995年に発足し1998年に報告書を提出し終了した。

 委員会の会場で明らかになったことはすさまじいものだった。白人対黒人だけではなく白人同士、黒人同士の血まみれの暴力の応酬、リンチ、裏切り。手が血にまみれていない者はだれもいない。そこではアパルトヘイト体制に我が子を殺された母親が、アパルトヘイト体制を守っていた我が子を殺された母親の隣で嘆き悲しんでいた。著者アンキー・クロッホはその証言をリポートしていくなかで思いだす。幼いころの夜、家の農場から黒人の若者によって羊が盗まれ、それを2人の兄が銃をもって追いかけていったことを。フラッシュバックのように何度も。真実和解委員会のメンバーと取材者たちの精神は打ちのめされ、体調を崩していく。著者の心と体も悲鳴をあげながらリポートを続けた。

 ネルソン・マンデラの前妻ウィニー・マディキゼラ=マンデラが、彼女の主催するサッカークラブのメンバーに殺人を教唆した容疑で召喚された。アパルトヘイト時代、投獄されていたネルソン・マンデラを支えた妻として反アパルトヘイトのアイドルだった女性だ。長い証言と討論の末、委員長デズモンド・ツツは言った。「あなたを心から敬愛する者としたあなたに申し上げます。あなたに立ち上がって言ってほしい、『間違えたことがある』と」。ウィニーマンデラは言った。「それが本当だとお答えします。ひどく間違えたことがあるし、それを引き起こしたいくつかの要因あるのにも気づいていました。それについては深くおわびいたします。」だが著者にはわかった。ウィニーマンデラは女王としての名誉を守りつつ、その場を乗り切ることを選んだのだと。

 ツツは「ウブントゥ(個人と共同体の調和を強調するアフリカの古くからの概念)」の精神をもって国民の和解を図ろうとした。その結果、多くの加害者が恩赦を受け、罪を免れた。多くの殺人が隠れてしまった。

 かつて旧ソ連の作家ソルジェニーツィンは言ったそうだ。「過去の人権侵害に対処しないことで、犯罪者たちの高齢をただかばっているだけではない。それによって、次の世代の足元から正義の基盤を剥ぎ取っているのだ。」

 さまざまな人種が混在し、いろいろな国の考え方が混在する南アフリカ。真実の追求か国家再建のための和解か。その問いは繰り返される。

(掲載:『望星』2010年9月号、東海教育研究所より加筆、改変)