本のいぬ

本のあいだをふらふら歩く、 のらいぬ澤 一澄 (さわ いずみ)の書評ブログ

電子書籍は紙の本を駆逐するか

 「電子書籍元年」と言われたのは今年で3度目らしい。昔のワープロソフトには電子ブックリーダーがついていたのもあったし。
 
 すでに学術分野はオンラインジャーナルで英文論文を読むのが常識。いまさら電子書籍元年もない。だが一般書それも小説で電子書籍に本格的にとっかかり始めたのは今年からだ。紙の本でも売れる作品をわざわざ電子化して意味があるのか、と思う。でも作家さんに言わせると紙の本だと印税1割っていうのがかなり不満だったそうだ。だったら自分で電子化したら、あるいは別会社から電子書籍として売り出したら、もっと印税率が増えるのではないか、という考えらしい。確かに今の日本の出版界では著者は冷遇されている。
 
 売れない本、書店で手に入れにくい本こそ電子化すべきじゃないのか。今の出版流通は硬直化していて、書店で欲しい本が買えない。公共図書館にも置いていない本が多い。
 
 そもそもインターネットが開発されたのはアメリカ。PCのOSも主にアメリカ製。当然、英語に親和性が強い。オンラインジャーナルも英語中心。日本の大学図書館では論文を無料公開しているところもあるが、その論文はほとんど日本語。外国からアクセスできても論文が読めない。これでは日本の学術機関は外国の学術論文の消費者ではあるけれど、学術論文の発信者にはなれない。だから最近の研究者は論文を英語で書き発表する。ところが日本の一般読者に向けては日本語でないと読まれない。公立博物館のような、地元に情報を提供しないと存在価値がない、と言われる研究機関は苦しい。
 
 日本のオンラインジャーナルはPDFファイルが主体だ。紙の雑誌をスキャンしてPDFに落とす。これだと紙の本特有の段組みがそのままPCの画面に出るので、上から下にスクロールして読むPCでは読みにくい。XMLファイルでオンライン用に組み直すのが良いのだが、技術者が不足しているそうだ。日本語特有の組版の規則にしたがって組み直すのはむずかしいらしい。
 
 日本語を軽視するわけではない。日本人の外国語が上達しないのは、生活するうえで必要ないからだ。日本は自国語の本だけで出版業がなりたってしまうめずらしい国なのだ。外国の多くの国では自国語の本だけを発行してはいない(インドなど)。

 かつて世界には自国語のほかに学術公用語というのがあった。ギリシャ語、ラテン語アラビア語、中国語など。自国語と学術公用語の両立は可能なはずだ。
 
 だがいずれ電子化されるからといって、それ以外の資料を捨ててしまうのは愚行。オリジナルは保存すべきだ。
 
 紙の本から電子書籍へ移行するのではなく、メディアに新しいバリエーションが増えるだけ、と見る。いずれ学術誌、雑誌、新聞、ハウツー本はオンライン化されてしまうだろう。だが小説や思想、哲学書など思考の反芻が必要な本はそう簡単に電子化されないと思う。情報はオンライン化へ、物語は当分、紙媒体で発行されるだろう。ケータイ小説は携帯で読むことを前提に書かれたら、小説の中身まで限定されてしまった。
 
 電子書籍が一般に普及するのはまだだろう。ユーザーが育っていない。PCを使えない人、使える人でも画面で長文を読むのが苦手な人がまだたくさんいる。おりしもマルクスエンゲルスサルトル、ドフトエフスキーなどを若かりしころに読み、活字文化にどっぷり浸かった世代が定年退職し、読書の時間を持てるようになってきた。
 
 電子書籍元年うんぬんの話は、発信元がユーザーや市場を把握できていないような気がする。生まれた時にすでにPCと携帯があった世代が出版消費の中核を担うのはもう少し先だ。