本のいぬ

本のあいだをふらふら歩く、 のらいぬ澤 一澄 (さわ いずみ)の書評ブログ

『死と滅亡のパンセ』 辺見 庸 著

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死と滅亡のパンセ

辺見 庸 著
毎日新聞社

1,365円

 東日本大震災のあと、ジャーナリストで小説家、詩人でもある辺見庸氏は、故郷の宮城県石巻市に立ちつくした。手に取るようによく知っていた町がなにもない。友人たちはどうなったのか。瓦礫の中に、墓から流れでたのかそれとも津波の被害者のものなのか骨が入り交じっている。巨大な滅びの風景に辺見氏は言葉を失った。滅びをもたらした海は、今は静かに凪いでいた。悲しみというより虚脱感を覚え巨大な空虚が浮かんで見えた。

 この滅びに対面して日本で発せられた言葉はあまりに貧しかった、と辺見氏は言う。一般企業がCMを自粛し代わりに「こんにちワン ありがとウサギ」など空虚な文句が一日中テレビに流れ、マスコミは「国難」と表現し、被災者には「絆」「がんばろう」など耳障りのいい言葉を向ける。不穏な言葉は自粛され封じられた。日本の言葉はここまで貧しくなったのか、と辺見氏は暗澹たる思いにとらわれる。日本では個人それぞれの言葉をみな同じ方向に向けようとする強制力が社会の無意識下で働いている、と。

 その社会に対し、言葉を取り戻した辺見氏は声を上げる。自分は個である。震災で現れたのは非情なる死と滅亡である。「いったいわたしたちになにがおきたのか。この凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。わたしはすでに予感してる。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。個をおしのけ例外をみとめない狭隘な団結。歴史がそれをおしえている。非常事態の名の下に看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理に根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなければならない。」

 辺見氏は、破壊された故郷を見つめ、滅びを考えつづける。自分の心の傷から眼をそらさないのだ。

(掲載:『望星』2012年10月号、東海教育研究所)