本のいぬ

本のあいだをふらふら歩く、 のらいぬ澤 一澄 (さわ いずみ)の書評ブログ

『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』矢野久美子 著

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ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者

矢野久美子 著

中央公論新社

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 昨年10マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の映画「ハンナ・アーレント」が単館上映されたが、中高年を中心に大勢が観に来たという。

 

 ハンナ・アーレント1906年、ユダヤ人としてドイツで生まれた。大学で哲学をハイデガーヤスパースに学ぶ。ナチス政権下、フランスに亡命。一時収容所に入れられた。が、脱走しアメリカに亡命した。生活苦と英語習得の苦労のなか多くの友人に恵まれ、哲学者としてスタートする。1951年、代表作『全体主義の起源』を発表。19世紀と20世紀の巨大壁画が展示されている美術館を訪れるようなもの、と言われるこの大著は哲学者アーレントの名を不動のものにした。「反ユダヤ主義」「帝国主義」「全体主義」からなるこの本でアーレントは、社会からはじき出され倫理を欠きだまされやすい「モッブ」なる人々、人種によって人の優劣を決め支配し排斥する人種主義、人の個別性を否定し組織の歯車に組み込む官僚制とそれに組み込まれた思考しない大衆をあぶり出した。

 

 映画で描かれた、ナチスユダヤ人絶滅計画の責任者だったアドルフ・アイヒマンイスラエルでの裁判を傍聴したアーレントの著作『イェルサレムアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』もその考えに基づく。世紀の悪を成したアイヒマンは命令を実行しただけの役人に過ぎなかった。官僚主義のなか、自分のやることがどんな結果をもたらすか考えない、自分のない陳腐な人間だった。ユダヤ人にとって「悪魔」だった人間を「平凡な小役人で、ユダヤ人に特別な悪意を持っていたわけではない」と断じたアーレントは、アメリカ言論界、イスラエルユダヤ人団体のみならず古くからの友人からまで、凄まじい非難を浴びた。だが、この見解を撤回することはなかった。

 

 アーレントは暗い時代から目をそらさない現実主義者だ。彼女の「いかなる状況でも個として思考する」考えは、愚直に組織に尽くす人間を良しとする日本で浸透するだろうか。

 

 この本はアーレントの生涯と難解な思想をわかりやすく描いている。アーレントの哲学の入門書としてはうってつけだ。

(掲載:『望星』201410月号、東海教育研究所より加筆訂正)