本のいぬ

本のあいだをふらふら歩く、 のらいぬ澤 一澄 (さわ いずみ)の書評ブログ

本は自由に読めばいい

 最近、子どもに読書が奨励されている。朝の10分間読書など、授業前に本を読ませる。自分で選んだ本でいい。そうすると静かに授業に入れるそうだ。私だったらたった10分しか本を読めないで続きは明日、なんて冗談じゃない。授業中でも読んでしまうだろう。国語の読解力がある子どもは算数・数学も成績が良い、ということが新聞記事などに載っていたらしい。そんなことは言い切れない。私は本は読んだが算数も数学もダメだった。今もダメだ。さらに両親に経済的余裕のある子どもは成績が良い傾向にあるが、親が読み聞かせをする、ニュースについて話をする、家に本がたくさんある、といった子どもは親の所得による成績の格差を緩和できる、とのことも掲載されていたらしい。子どもに本を読ませれば読解力、言葉への理解力、思考力、分析力、想像力、他人の気持ちになって考える心などが育ち、成績が良くなり良い子になる、いいことづくめだそうだ。

 バッカじゃないの?!
 私の小さいころは、まわりに図書館も本屋もなかった。学校の図書室も新しい本を買う余裕もなく、担当の教師もいなかった。読んだのは家にあった世界の昔話の本、伝記、そしてなぜか母が買ったものの読まないでもてあましていた大人向けの世界名作全集、学校の図書室にあったひめゆり学徒隊の本など。本を読んでいると「本なんか読んでないで外でみんなと遊んでらっしゃい」「スポーツでもしなさい」などと言われた。親にも教師にも読書を勧められたことはない。私の小さいころだけではない。昔は豊かな家庭の子でもない限り、本を手に取ることはなかなかできなかったはずだ。
 それでも本の好きな子はいた。その子たちは自分で本をできうるかぎり探して読んだ。そして興味のある分野にのめりこんだ。本は読まされるものではなく、自分で探して読むものだ。

 なぜ今更のように子どもに本を読ませるのか、推測してみた。OECD生徒の学習到達度調査( - せいとのがくしゅうとうたつどちょうさ、Programme for International Student Assessment, PISA)は先進各国の児童生徒が数学、読解力、科学のテストを受けるもの。このなかで日本は近年、読解力の落ち込みが激しく、他教科でもかんばしくない。そして2006年の調査のベスト2まですべてフィンランドが占めることとなった。教育界はフィンランド研究に走った。そして国会議員や文部科学省では読解力に力を入れ、授業に読書を取り入れ子どもに本を読む習慣をつければ、学力大国日本をとりもどせると考えたのだろう。
 折しも時は出版不況。とくに新聞業界が苦しい。業界団体の後押しもあったのではないか。出版不況とは人々が本を買わないからではなく、出版点数、出版部数を増やして供給過多にした大手出版社が自らの首を絞めた結果だ。それでも町中の中小書店には大手出版社の流行本しか出回らず、中小出版社の本がならぶことはあまりない。
 
 本は読まされるものではない。自分で読むものだ。心のなかの想像の王国を他人に支配されたい人がどこにいるだろうか。自分で選んだと思った本が他人の誘導の結果、手に取ったものだとしたら。図書館が勧める良い子どもの本は「楽しい本」「読んでいて幸せになる本」「人生のためになる本」らしい。では江戸川乱歩は? シャーロック・ホームズは? グリム童話は? 本は明るい面ばかりあるのではない。人間の奥底の暗黒を映し出すものでもあるのだ。
 
 本を多く読む子は成績が上がるか。幸せになれるか。逆に本を読まない子は感性や理解力が不足しているのか。頭が悪いのか。将来は不幸か。そんなことはない。どんなにまわりが動いても本が好きな子は読むし嫌いな子は読まないだろう。本が嫌いな子はほかの好きなことを見つけるだろう。読書が強制され読む本が制限されるとしたら、レイ・ブラッドベリの『華氏451』と同じだ。読書は個人のものであり、個人の自由だ(ただし研究書は該当しない。個人の好みにかかわらず読まなければならない本があるからだ)。

 私が書評なるものを書くのは、読書が私の衝動で存在意義だからだ。おもしろいと感じた本に魅入られると『攻殻機動隊』の主人公草薙素子のように「ゴーストのささやき」を感じる。そうして書いた書評も「ぜひ読んでください」という押しつけるのではなく『クレヨンしんちゃん』の次回予告のように「読めば〜」という感じ。書評は本の紹介で、読むのはそれをおもしろいと感じた人の自由にゆだねる。本を読むのは心の自由のためなのだ。