本のいぬ

本のあいだをふらふら歩く、 のらいぬ澤 一澄 (さわ いずみ)の書評ブログ

手づくりのアジール 「土着の知」が生まれるところ / 青木新兵 著

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手づくりのアジール 「土着の知」が生まれるところ
青木新兵 著
晶文社

 民主主義国家なら、人が皆、心身ともに健康に生きられるのが「ふつう」だ。だが、このところ皆が「ふつう」に生きるのはむずかしくなっている。「ふつう」というのは厳しい条件をくぐり抜けた人々の狭い輪になってしまった。「ふつう」でない人は生きづらい。

 著者・青木新兵と海青子夫妻は、かつて神戸の都市部に住んで働いていた。著者は西洋古代史を専攻して大学院博士課程を終え、大学非常勤講師や塾講師をしながら論文作成など研究者としての実績づくりに追われていた。病気の苦しみに耐えながら。妻は大学図書館で司書として働いていたが、よその大学に転職。しかし配属先は図書館ではなかった。妻は職場での軋轢のためか病気になり休職、そして入院することとなった。「ぼくたちは社会の中で一度『死んだ』のだと思っています」と著者は語る。

 2016年、著者夫妻は奈良の山の中の東吉野村に家を借りて引っ越した。そこに蔵書を並べ、人文系私設図書館ルチャ・リブロを開いた。著者は障害者就労支援事業所で働き、大学で講師をし、村共同の仕事をし、ルチャ・リブロのキュレーターをしている。妻はルチャ・リブロを営みながら布小物やアクセサリーを作っている。
 
 ふたりはルチャ・リブロを「アジール」として作ることを試みた。「アジール」とは時の権力からの避難所のこと。宗教や慣習上の理由から聖なる場とされ、そこに入れば追求から逃れることができる。例えば、離婚したい女性が駆け込む縁切寺。山は聖地とされたため、古来から為政者の権力が及ばない「アジール」だった。
 
 今の日本は小さく囲い込まれた都市の生活が「ふつう」とされている。でも、その周辺の山村には都市の生活とは違う、自然の流れに合わせた土着の生活がある。著者は都市から山へ逃げてルチャ・リブロという「アジール」を作り、都市と行き来していろいろな仕事をする、という軽やかな暮らしをおくることで都市の「ふつう」に挑む。この本で著者は同年代の人文系研究者と対話している。考えを語り合い共有する人々の輪を広げていく。今の「ふつう」に対する「知のアジール」が山の土着の生活の中から作られる。
 
 著者は、都市の「ふつう」になじめず漂泊する人物として、映画「男はつらいよ」の寅さんに惹かれている。ときどき温かな家族が住む故郷柴又に帰ってくるものの、真っ当に働けだの落ち着いて家庭をもてだの言われ、喧嘩をして飛び出してしまう。そして旅に暮らすが、気が向くといつの間にかひょっこり帰ってくる。今はこういった漂泊者が存在できない時代になってしまった、と考える。
 
 これまで若い研究者は大学に定職を得るために身をすり減らしてきた。しかし著者のような、中央の権威に寄らず自分たちで新しい知の場を作ろうとする人が出てきた。新しい柔軟な知が野から育っている。若い人々の挑戦に期待しよう。

掲載:『望星』2022年2月号(東海教育研究所)に加筆訂正