本のいぬ

本のあいだをふらふら歩く、 のらいぬ澤 一澄 (さわ いずみ)の書評ブログ

図書館法における司書の存在の耐えられない軽さ

 図書館法では司書の図書館における立場があいまいである。

図書館法
昭和25(1950)年4月30日法律第108号
最終改正:平成23(2011)年12月14日法律第122号

法律の目的は下記の通り。

第1条  この法律は、社会教育法(昭和24年法律第207号)の精神に基き、図書設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もつて国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする。

図書館法では、図書館をこう定義する。

第2条  この法律において「図書館」とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーシヨン等に資することを目的とする施設で、地方公共団体日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人が設置するもの(学校に附属する図書館又は図書室 を除く。)をいう。
2  前項の図書館のうち、地方公共団体の設置する図書館を公立図書館といい、日本赤十字社又は一般社団法人若しくは一般財団法人の設置する図書館を私立図書館という。

日本図書館協会は、こう書いている。

自治体が設置する「公立図書館」と、法人等が設置する「私立図書館」を総称して「公共図書館」と呼んでいます。
日本図書館協会HP「図書館について」

図書館法における図書館とは公立図書館と私立図書館を総称して一般に言われている公共図書館学校図書館大学図書館は含まない。法律では学校図書館学校図書館法大学図書館大学設置基準で定められている。

図書館奉仕、つまり図書館の仕事における図書館職員の役割についてはこう書いてある。

第3条 3 図書館の職員が図書館資料について十分な知識を持ち、その利用のための相談に応ずるようにすること。

司書と司書補については

第4条  図書館に置かれる専門的職員を司書及び司書補と称する。
2 司書は、図書館の専門的事務に従事する。
3 司書補は、司書の職務を助ける。

第5条には司書と司書補の資格をもつ者について、資格取得の条件と方法をあげている。

第5条  次の各号のいずれかに該当する者は、司書となる資格を有する(長いのでリンク先参照)。

司書と司書補の研修についても定めてある。

第7条  文部科学大臣及び都道府県の教育委員会は、司書及び司書補に対し、その資質の向上のために必要な研修を行うよう努めるものとする。

一方、図書館職員の配置については「第2章 公立図書館」第13条にある。図書館法では、私立図書館の職員についての規定がない。

第13条  公立図書館に館長並びに当該図書館を設置する地方公共団体教育委員会が必要と認める専門的職員、事務職員及び技術職員を置く。

 「専門的職員」は司書なのか。どのような資格や技術をもつ者なのかは書かれていない。専門的職員を司書とみなすこともできるが、確としたところはわからない。自治体では図書館設置条例や管理運営についての規則でこれを定めている。だがその内容、正規職員の司書を図書館専任職員とするかどうか、図書館業務を担当する職員は司書資格所持者とするか、どのような雇用条件とするか、は自治体によってまちまちになっている。図書館運営業者への業務委託や指定管理の場合は、その業者の雇用条件となる。

 つまり、司書の立場は雇われる先によって違うのだ。非正規司書の契約更新回数も自治体によってまちまち。また、自治体が図書館を直営から指定管理にすることで、正規司書なら異動、非正規司書なら契約終了になる。指定管理運営の図書館の司書なら、指定管理業者が管理期間終了で入札に外れた場合、職場が変わるか仕事がなくなるか、となってしまう。

 かくて非正規司書には、契約終了に怯えつつ長年同じ職場で働く司書もいれば、いろいろな図書館を渡り歩く「渡り司書」というか「流しの司書」「野良司書」もいるのだ。

『誰だ ハックにいちゃもんつけるのは』ナット・ヘントフ 著 / 坂崎麻子 訳

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『誰だ ハックにいちゃもんつけるのは』
ナット・ヘントフ 著 / 坂崎麻子 訳
集英社集英社文庫コバルト・シリーズ)、1986

 現代の図書館は民主主義における人間の重要な権利〈表現の自由〉と〈知る権利〉の現れとしてつくられたものだ。この本『誰だ ハックにいちゃもんつけるのは』は、そのことを提起している。原題は、"THE DAY THEY CAME TO ARREST THE BOOK(彼らが本を逮捕した日)、発行は1982年。作者ナット・ヘントフアメリカの作家でジャズ評論家。少年時代は黒人ミュージシャンに憧れてジャズプレイヤーになりたかったそうだ。代表作に、ジャズへの熱い思いに満ちた『ジャズ・カントリー』『ジャズ・イズ』や、自由を訴える『ぼくらの国なんだぜ』『アメリカ、自由の名のもとに』がある。

 マーク・トゥエインの小説『ハックルベリー・フィンの冒険』は現在も、アメリカ文学の古典として評価され、読み続けられている。アメリカ南部の田舎町の浮浪児ハックが、飲んだくれの父から逃れて、逃亡奴隷ジムと逃避行を繰り広げる。当時、人間として扱われずハックもはじめはバカにしていた黒人のジムと友情を結び、彼の知恵に助けられて、悪党や奴隷追跡者から嘘や狡知を使って逃れ、捕らえる者のいない自由の地をめざす、というアウトサイダーの物語。ハックは、堅苦しい19世紀で自由を真摯に求める。そして奴隷制度下の南部社会で、逃亡奴隷ジムを通報するという「善いこと」をすべきか、それとも自分の心に生まれたジムへの友情を貫いてジムの逃亡を助けるという当時の社会では「悪いこと」をすべきか葛藤し、「地獄に落ちてもいいからジムを助ける」と決断する。この浮浪児のなかの自立した健全な心が、今でも大勢の心を捉えている。だが同時に、奴隷制度のあった時代の南部での黒人の扱いをあからさまに描き、奴隷制度を明白には否定していない、という現代のポリティカル・コレクトネスに合わない点などが、今日まで、学校で授業の教材図書になったり、教材には不適当との抗議を受けて教材からはずされたりと、常に文学としての評価が問われ続けている作品だ。トウェイン自身はそんな評価を予測してか、序文にこんな文章を書いた。

 「警告
この物語に主題を見つけようとする者は、告訴されるであろう。教訓を見つけようとする者は、追放されるであろう。プロットを見つけようとする者は、射殺されるであろう。」

マーク・トウェイン 著 / 大久保 博 訳『ハックルベリー・フィンの冒険KADOKAWA〔トウェイン完訳コレクション〕、2004)

 アメリカで起こっていた『ハックルベリー・フィンの冒険』の検閲をもとに小説にしたのが、この『誰だ ハックにいちゃもんつけるのは』だ。ナット・ヘントフ自身はユダヤアメリカ人。もちろん人種差別主義者ではなく、ジャズを作り上げた黒人ミュージシャンたちに深い尊敬の念を抱いている。ヘントフは、この本や他の著作で、「ファースト・アメンドメント」を繰り返し言及する。《アメリカ合衆国憲法修正第一条》「ファースト・アメンドメント」はアメリカ合衆国憲法のなかで〈表現の自由〉を定めたもの。アメリカの自由のよりどころだ。

アメリカ合衆国憲法修正第一条》(信教・言論・出版・集会の自由、請願権、一七九一年成立)
 「連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律、 ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は、これを制定してはならない。」

(THE EMBASSY OF THE UNITED STATES IN JAPAN , ”About America "
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-constitution-amendment.html )


 この本には、学校図書館からの特定の本の排除を訴える側の論理とそれに反対する側の論理、その衝突が起こした問題についてリアルに描かれている。著者ナット・ヘントフは、本の排除に反対する側に立って物語を語っているが、かと言って、排除を訴える側を悪役にしてはいない。悪役は、本の排除の訴えが起こらないように密かに図書館の本を検閲する校長だ。この校長の姿が、醜くまぬけに描かれすぎている観はある。

 ジョージ・メイソン高校の新学期。バーニー・ロスは17歳。生徒新聞「ジョージ・メイソン・スタンダード」紙の新入りの記者。友人ルークといっしょに登校中、女子生徒ケイトから、バーニーとルークは、学校図書館の司書カレン・ソルターズが辞職し、そのことに校長マイケル・ムーア、通称マイティー・マイクが関わっていたことを聞く。

 一方、新任の司書ディアドリー・フィッツジェラルドは歴史教師ノラ・ベインズから前任の司書カレン・ソルターズが辞職したいきさつを説明される。校長が生徒の保護者たちの学校図書館の蔵書への訴えを内密に処理するために、司書に当の本を閉架にするようにつぎつぎと命じ、その圧力についに、

 「本を人からとりあげるために、わたしは司書になったわけじゃないわ」

と叫んで辞職したのだった。

 さて新学期、ノラ・ベインズの歴史の授業で19世紀アメリカについて学ぶための副読本としてマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』を指定した。このことに黒人生徒ゴードン・マクリーンと父親カール・マクリーンから抗議があがる。この本のいたるところに“黒んぼ(ニガー)”と黒人に対する差別用語があることと、黒人への差別が公然とあること、作中で人種差別が否定されていないことが理由だった。カール・マクリーンは『ハックルベリー・フィン』を授業だけでなく、学校図書館、学校のすべてのところから追放するように校長に迫った。

 ムーア校長はこの歴史教師ベインズに、この抗議から『ハックルベリー・フィン』を授業からはずして、おおっぴらにならないように処理するように言う。ベインズは

 「誰も傷つけない本があるんですか? あったら見せていただきます。そしたら、それは誰ひとりきちんと読んだこともない本だと証明してさしあげます」

と、『ハックルベリー・フィン』をめぐってあがった抗議を公にして判断を教育委員からなる調査委員会にかけるように訴えた。一方、学校図書館にある『ハックルベリー・フィン』を生徒にわからないように隠す、つまり閉架にすることを校長に命じられた司書ディアドリー・フィッツジェラルドも、

「本を隠し、それを捜しにきた子供たちに嘘をつくために、わたくしは司書になったのではございません」

と、はねつけた。教員と司書が校長に真っ向異論をとなえるとは、日本ではあまりなさそうだ。

 こうして、校長の願いとは裏腹に、ハックへの糾弾は表沙汰になっていく。かくしてジョージ・メイソン高校に『ハックルベリー・フィンの冒険』を置くことを認めるか否か、高校のホールで公開討論会が開かれた。教育委員会議長と調査委員会、教員、生徒と保護者、ほか街の多くの人々が参加しての討論となった。調査委員会は教員、生徒の保護者、弁護士、ジャーナリストなど。この事件は街中からアメリカ全国に知れわたる事件になる…。

 さまざまな民族や主義が存在するアメリカでは、本への検閲は日本よりもはるかに大きな問題だ。そのため、本を学校や学校図書館でどのように扱われるべきかを市民によって公に討論されている。公開と公正を理想とするアメリカのデモクラシーの現れだ。

 歴史教師ノラ・ベインズの言葉。

 「検閲を相手に闘うなら、はじめのはじめからのできごとをすっかり光の中にさらけだすことよ。そうすれば必ず新聞や、テレビや、ラジオがとりあげる。くりかえし、くりかえし、それをやる。マイティー・マイクが、今まで本を閉じこめながら、まんまと逃げおおせた理由はね。それを暗闇の中でやったからです。外にいる人間には、なにひとつ、わからなかった」

 バーニーも同じようなことを言っている。

 「虚偽に対する最良の方法は、はっきりそれを人目にさらし、明るい所にひきだすことだって」

 この本はまた「図書館に置く本はどのようであるべきか」という論争も扱っている。
だれが見ても正しいとする本だけを置くべきか。多様な意見の本を置き、読者に判断をゆだねるか。

 「時間は、よい本を読むために使うべきよ。よい本てのは、まぎらわしいことの書いてない本、事実を伝える本よ―事実だけをね」

 「まちがったもの、邪悪なもの、なにもかもひっくるめて授業にとり入れ、図書館におく。これは、教育の神聖な定義をけがすものです。ここにいる生徒は、一連の人間的学習の途上にある。ということは、教養を修得しようとしているのであって、人間の無知から生まれた病的な毒々しい汚物を身につけることではないのです…きみは、ユダヤ人虐殺(ホロコースト)などなかった、と書いてある本を、この高校で使うのを許すわけですか?」

 「まさにそのとおりです…そういう本も使う。そして史実とつき合わせてみる。生徒は恐ろしい事実に対立する虚偽を調べることで、ほんとうは何が起こったかをよりしっかりと把握できる。そればかりじゃない、非常に重要なことを学ぶことができます。ユダヤ人排斥者とか、あらゆる狂信者が、否定できないものをどこまでも否定しようとしているのを知るわけです。若い人が、このような病的異常を身をもって知るのは、有益なことです…選択の幅を狭めておいて、自由であれというのは無理です」

「自由というものは、ですな…。学んで身につけるものなのです。無秩序とは違うんですから。人間は年齢によって、程度の違うとが書かれていてもいいってことですか? もし、学校が、なにが正しいかを教えないなら…自由を持つ。われわれが後継者を学校に入れるのは、そのためです。ここにおられる生徒さんは、高校生ですが、わたしが申したような本は、ちょうど伝染病の保菌者が隔離されるように、学校に入れてはいけないのだ、というような重大な選択をその時どきに責任をもって行えるほどには成長していないのであります」

「自由って、人をまどわせる言葉です。危険な言葉にもなり得ます。思考の自由という名のもとで、学校は、黒人やユダヤ人や東洋人への偏見を押しつけて、子供の精神を毒していいのでしょうか? 思考の自由とは、学校では、先生はどんなことを言ってもいいのでしょうか? 学校で使われる本に、どんなこ学校なんか、なんのためにあるんですか? そして学校が、何が正しいかを教えるためにあるなら、当然、この本は間違っている、有害である、教室や図書館では許されないと言明する権威を持つべきです。それを検閲と呼ぶひともいるけど、あたしは、それこそ、言葉遊びだと思うわ」

 司書ディアドリー・フィッツジェラルドは「知る自由」と「思考の自由」を主張する。

 「自由は危険なものであり得ます。実際にとても危険です。けれども、自由の反対はさらに危険です。何千倍も危険です。国民が、何を言っていいか、何を読んでいいか、悪いかを政府が決めている、いろいろな国をお考えください。自分のほんとうに内面的な考えまで、人に知られ、それを踏みにじられることを国民が恐れているたくさんの国をごらんください。
 わたくしたちが、このような絶望と束縛の中でくらすことがないようにと…この国を建った人々は自由を選んだのです。危険を承知の上で選んだのです。建国者たちが選んだ自由の、最も危険な部分は何だとお考えになりますか?
 建国者たちは、それからのアメリカ国民が、さまざまに異なる意見のるつぼの中で、自分自身で決定できると信じていたのです。たとえ、言論の自由を利用して、この国の政府が何を読んでいいか悪いかを決めてしまうような国にしてしまおうと誘惑する人間が現れた時でも、なお、自由であり続けることができると信頼したのです。
 建国者たちの、わたくしたちへのこのような信頼、合衆国憲法と、権利宣言を書き、制定した人々のこのような信頼は正しかったわけです。わたくしたちは、今も、自由ですから。今回の闘争も、まったくそのためのものです。つまり、わたくしたちは、これからもずっと自由であり続けるか? という闘いです」


 そして、学校は何が正しいかを教えるためにあるのであって何がまちがっているかをわざわざ見せるためにあるのではない、たとえそれが自由を制限することになっても学校には正しい本を置くべきでまちがった本は排除すべき、という意見について、

 「それは独裁者の教育理念です。わたくしたちのものであるはずがない。この国では、考え方を制限するのは、先生や司書の役目ではありません。むしろ、その役目は、その考えを、よいものも悪いものも、説明し、分析して、生徒が将来、自分でそれができるようにすることです。生徒たちが自分の考え方をつかむように導くことです。これがなにが正しいかを教えることではありませんか? 思考の独立ということを教えることだからです」

 この言葉は、作者ナット・ヘントフの主張そのものだ。アメリカ建国の精神、自由と民主主義への賛同と、知る自由と思考の自由を求める精神、そして良書主義や検閲への反論がこの言葉にはある。

 この本は残念なことに日本語訳は版元品切で絶版状態。図書館で借りるか古本か原書を買うかになってしまう。原書は紙媒体でも電子書籍でも入手可能。たくさんの人々に読んでほしい本のなので日本語訳を再発行してほしい。

(書き下ろし)

『華氏451度〔新訳版〕』レイ・ブラッドベリ 著 / 伊藤典夫 訳

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華氏451度〔新訳版〕
レイ・ブラッドベリ
伊藤典夫
早川書房(ハヤカワ文庫SF)
929円

 『華氏451度』。アメリカ文学の幻想の魔術師レイ・ブラッドベリの代表作にして、現代社会に警鐘を鳴らす問題作。旧訳版より読みやすくなっている。

 華氏451度は紙の燃えだす温度。現実に似た世界。モンターグは“昇火士(ファイアマン)”〔旧訳では“焚書官”〕。本を焼きつくすのが仕事だ。本は忌まわしく邪悪なもの。人々はいつも家の大型スクリーンに映るテレビショーを観て笑い、超小型ラジオを耳に入れて音楽を聴き愉快に暮らしている。かんたんに得られる刹那的な楽しみや情報だけしか目に入らず、過去を記憶する間もなく忘れる。辺りをつつむ戦争の気配も気にしない。

 モンターグはわずかな人々が隠し持っている本を燃やす仕事を愉しんでいた。だが純心な少女が投げかけた社会への素朴な疑問に心を動かされ、“昇火”の現場で、自ら蔵書とともに焼かれて死んだ老女におののいて、本を家に持ち帰ってしまう。それを知った老学者は教える。

「昇火士などほどんど必要ないのだよ。大衆そのものが自発的に、読むのをやめてしまったのだ。」

多くの人々が権力者に強いられてではなく自ら本を読まないことを望んだ社会で、本の言葉、本の語ることにのめり込んでいくモンターグは今度は自分が昇火士に追いつめられる。

 著者ブラッドベリは、この小説のテーマは「文化の破壊」だと言う。本は物語や思考を距離や時代をこえて届ける記憶の船。文化をつくる一片。本を読むことは楽しいばかりではなく、悲しみを呼び起こされたり苦悩に沈んだり深い思考が必要になったりする。それを怖れ厭う人々も現実にいるのだ。

電子記憶媒体やインターネットが普及した現代で、本はもはや唯一の記憶の船ではない。だが、記憶を守るために失うわけにはいかないものだ。

(掲載:『望星』2015年1月号、東海教育研究所を加筆修正)

『本当の戦争の話をしよう 世界の「対立」を仕切る』 伊勢﨑賢治 著

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本当の戦争の話をしよう 世界の「対立」を仕切る

伊勢﨑賢治 著
朝日出版社
1,700円

 伊勢﨑賢治氏は国連PKO活動に参加し東ティモールシエラレオネアフガニスタン武装解除を手がけてきた自称「紛争屋」。現在、大学で各国の学生に「平和と紛争」学を教え研究している。

 2012年、東日本大震災の翌年に伊勢﨑氏は福島市にある福島県立福島高校を訪れ、2年生たちに自らの国際紛争での仕事と体験を講義した。震災で福島高校のふたつの校舎が使用不能で会場はプレハブ仮設校舎。生徒たちは被災者であり、東日本大震災福島原発事故という脅威を日本人として伊勢﨑氏と共有していた。この講義は、そんな彼らと国際紛争という日本人には非日常的な世界をどこまで共有できるか、という伊勢﨑氏の試みだった。それをまとめたのがこの本だ。

 伊勢﨑氏の関わった紛争国はまだ平和と言えない。どうして日本は平和ダと思う、と高校生に問う。またアルカイダの指導者オサマ・ビンラディンが当時アメリカに協力していたパキスタンの首都近くでアメリカ特殊部隊に殺害されたことから、もしアメリカの同盟国日本の新宿歌舞伎町で同じことが起きたらどう思う、そもそもビンラディンのようなテロリストと呼ばれるのはどんな人々だと思う、と尋ねる。

 さらに伊勢﨑氏は生徒たちに、「日本は戦争でアメリカに負けたから、日本人は自分たちと同じようにアメリカに不信感を持っているんだろう」という「美しい誤解」を海外で抱かれがちということを説明する。それを生かし、日本には憲法九条があるので戦争をしない、と海外に広め、自衛隊が非武装で紛争国の武装解除や戦後復興などにあたれば、相手国の信頼を得て独自の国際貢献ができるのではないか、と持論を説く。実際、日本は戦争をしない憲法をもつ平和国家として、戦争の絶えない国の人々から憧れられている。

 紛争を終わらせ生活を取り戻すには、国々の複雑な対立構造に取り組んで和解を目指さねばならない。だが、それは本当に成しがたいことだ。日本は紛争国に「戦争をしないこと」を期待されている。
(掲載:『望星』2015年4月号、東海教育研究所に加筆)


『鹿の王 (上)生き残った者/(下)還っていく者』 上橋 菜穂子 著

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鹿の王 上  生き残った者鹿の王 下  還っていく者
上橋 菜穂子 著
ADOKAWA
上下 各1,728円

 『精霊の守り人』に始まる『守り人』シリーズ、『獣の奏者』など、児童書の枠に収まりきらないハイ・ファンタジーを書き、優れた子どもの本の作家に贈られる国際アンデルセン賞を2014年に受賞した作家で文化人類学者、上橋菜穂子氏の最新作。

 東の帝国東乎瑠(ツオル)に併呑された山と森と草原の遊牧民の国アカファ。その敗軍の将ヴァンは捕らえられ奴隷となった。ヴァンは40歳。「飛鹿(ピュイカ)」という鹿を駆る氏族で生まれ育ったが、流行り病で妻子を亡くし死を望み、同様に死に場所を探す男たちの戦士団「独角」を率い、勝てない戦でできるだけ有利な立場で負け、氏族を存続させるために戦っていた。戦士団は全滅。アカファは限られた自治を保つことができた。東乎瑠は自国の辺境民をアカファの遊牧民の土地へ移住させた。アカファは先住の飛鹿の民やトナカイの民、「火馬」という駿馬を駆る民と、麦を育て牛や羊を飼う東乎瑠の民が混在して暮らす地となっていった。

 岩塩鉱で奴隷として過酷な日々をおくっていたヴァン。ある夜、一群の犬たちが岩塩鉱に襲来。人間たちすべてを牙で傷つけていった。死ぬほどでなかった傷だったが数日後、皆、高熱にたおれて死んだ。生き残ったのはヴァンと名の知れぬ幼子だけ。ヴァンは幼子を背負い逃亡する。病を運ぶ犬たちは、東乎瑠とアカファの王族にまで襲いかかった。アカファの古い医家出身の医師ホッサルは、200年以上前にこの地にあった国を滅ぼした病と同じではないかと疑う…。

 これは「守る者」たちの物語。子どもだけに向けられた物語ではない。戦と疫病に恐怖する世界で、ヴァンはかつて愛する者たちを守れなかった痛みを抱え幼子を守って戦う。燎原の火のように広がる疫病から人々を守るために戦う医師ホッサルほか、王侯も民草も家族や大切なものを守っている。ヴァンの姿は、藤沢周平の小説の主人公、寡黙だが腕が立つ武士を思わせる。父親である大人の男性にも読んでもらいたい。

祝 2015年本屋大賞受賞。

(掲載:『望星』2014年12月号、東海教育研究所に加筆)


 

『図書室の魔法』上・下, ジョー・ウォルトン 著 / 茂木 健 訳

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図書室の魔法』上・下
ジョー・ウォルトン 著 / 茂木 健 訳
東京創元社(創元SF文庫)
上下巻  各929円

 

 物語は人を自由にする。物語を読むことは自由になること。耐えられない現実の中でも本を読んでいる間は自由なのだ。

 この本の舞台は1979年のイギリス。語り手モリはウェールズ地方で生まれ育った15歳の少女。闇に落ちた魔女である母親が起こした交通事故で最愛の双子の妹を失い、自分も歩くのに杖が必要な体となった。モリは母親から逃れ、顔も知らない父親とその姉である3人の伯母に引き取られる。父親を支配する伯母たちはモリをイングランドの名門女子寄宿学校に転入させてしまう。イングランドの上流階級の生徒たちのなかでウェールズの労働階級で育ったモリは異端者。父親の車のブランドばかりを気にする生徒たちと規則に縛られた学校で、モリが信じられるのはフェアリーと魔法そして本、特にSF。

 モリはフェアリーの力を借りて魔法を使い、母の魔の手から身を守る。心は幼いころに読んだ『指輪物語』と共にある。読書は絶望と孤独のなかで自己を手放さないための彼女のサバイバル手段。本から得た知恵と想像力は生きるための魔法。モリは学校図書室と公立図書館の本に没入し、ハインラインル・グィンティプトリーなどSFファンには懐かしい小説や、さらにプラトンマルクスも読破してしまう。そして公立図書館でのSF読書クラブで心から結ばれる仲間と出会い、自分の生きる世界を見いだす。

 この本はあくまでモリの眼から見た物語なので、魔法やフェアリーなどは少女の夢想にすぎないかもしれない。だがモリの故郷ウェールズアーサー王伝説の故郷であり、古くから妖精や魔法が語り継がれている。また少女が成長するとき、それを阻む母親がいれば恐ろしい魔女に見えることもあるだろう。

 モリは成長してひとりの人間となるために本を読みつづける。母への恐怖や妹の死の悲しみを乗り越える力を本から得る。この本は大人になった「本の虫」たちへのメッセージでもある。

 ヒューゴー賞ネビュラ賞、英国幻想文学大賞受賞作。

(掲載:『望星』2014年11月号、東海教育研究所に加筆訂正)

『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』矢野久美子 著

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ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者

矢野久美子 著

中央公論新社

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 昨年10マルガレーテ・フォン・トロッタ監督の映画「ハンナ・アーレント」が単館上映されたが、中高年を中心に大勢が観に来たという。

 

 ハンナ・アーレント1906年、ユダヤ人としてドイツで生まれた。大学で哲学をハイデガーヤスパースに学ぶ。ナチス政権下、フランスに亡命。一時収容所に入れられた。が、脱走しアメリカに亡命した。生活苦と英語習得の苦労のなか多くの友人に恵まれ、哲学者としてスタートする。1951年、代表作『全体主義の起源』を発表。19世紀と20世紀の巨大壁画が展示されている美術館を訪れるようなもの、と言われるこの大著は哲学者アーレントの名を不動のものにした。「反ユダヤ主義」「帝国主義」「全体主義」からなるこの本でアーレントは、社会からはじき出され倫理を欠きだまされやすい「モッブ」なる人々、人種によって人の優劣を決め支配し排斥する人種主義、人の個別性を否定し組織の歯車に組み込む官僚制とそれに組み込まれた思考しない大衆をあぶり出した。

 

 映画で描かれた、ナチスユダヤ人絶滅計画の責任者だったアドルフ・アイヒマンイスラエルでの裁判を傍聴したアーレントの著作『イェルサレムアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』もその考えに基づく。世紀の悪を成したアイヒマンは命令を実行しただけの役人に過ぎなかった。官僚主義のなか、自分のやることがどんな結果をもたらすか考えない、自分のない陳腐な人間だった。ユダヤ人にとって「悪魔」だった人間を「平凡な小役人で、ユダヤ人に特別な悪意を持っていたわけではない」と断じたアーレントは、アメリカ言論界、イスラエルユダヤ人団体のみならず古くからの友人からまで、凄まじい非難を浴びた。だが、この見解を撤回することはなかった。

 

 アーレントは暗い時代から目をそらさない現実主義者だ。彼女の「いかなる状況でも個として思考する」考えは、愚直に組織に尽くす人間を良しとする日本で浸透するだろうか。

 

 この本はアーレントの生涯と難解な思想をわかりやすく描いている。アーレントの哲学の入門書としてはうってつけだ。

(掲載:『望星』201410月号、東海教育研究所より加筆訂正)