本のいぬ

本のあいだをふらふら歩く、 のらいぬ澤 一澄 (さわ いずみ)の書評ブログ

『誰だ ハックにいちゃもんつけるのは』ナット・ヘントフ 著 / 坂崎麻子 訳

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『誰だ ハックにいちゃもんつけるのは』
ナット・ヘントフ 著 / 坂崎麻子 訳
集英社集英社文庫コバルト・シリーズ)、1986

 現代の図書館は民主主義における人間の重要な権利〈表現の自由〉と〈知る権利〉の現れとしてつくられたものだ。この本『誰だ ハックにいちゃもんつけるのは』は、そのことを提起している。原題は、"THE DAY THEY CAME TO ARREST THE BOOK(彼らが本を逮捕した日)、発行は1982年。作者ナット・ヘントフアメリカの作家でジャズ評論家。少年時代は黒人ミュージシャンに憧れてジャズプレイヤーになりたかったそうだ。代表作に、ジャズへの熱い思いに満ちた『ジャズ・カントリー』『ジャズ・イズ』や、自由を訴える『ぼくらの国なんだぜ』『アメリカ、自由の名のもとに』がある。

 マーク・トゥエインの小説『ハックルベリー・フィンの冒険』は現在も、アメリカ文学の古典として評価され、読み続けられている。アメリカ南部の田舎町の浮浪児ハックが、飲んだくれの父から逃れて、逃亡奴隷ジムと逃避行を繰り広げる。当時、人間として扱われずハックもはじめはバカにしていた黒人のジムと友情を結び、彼の知恵に助けられて、悪党や奴隷追跡者から嘘や狡知を使って逃れ、捕らえる者のいない自由の地をめざす、というアウトサイダーの物語。ハックは、堅苦しい19世紀で自由を真摯に求める。そして奴隷制度下の南部社会で、逃亡奴隷ジムを通報するという「善いこと」をすべきか、それとも自分の心に生まれたジムへの友情を貫いてジムの逃亡を助けるという当時の社会では「悪いこと」をすべきか葛藤し、「地獄に落ちてもいいからジムを助ける」と決断する。この浮浪児のなかの自立した健全な心が、今でも大勢の心を捉えている。だが同時に、奴隷制度のあった時代の南部での黒人の扱いをあからさまに描き、奴隷制度を明白には否定していない、という現代のポリティカル・コレクトネスに合わない点などが、今日まで、学校で授業の教材図書になったり、教材には不適当との抗議を受けて教材からはずされたりと、常に文学としての評価が問われ続けている作品だ。トウェイン自身はそんな評価を予測してか、序文にこんな文章を書いた。

 「警告
この物語に主題を見つけようとする者は、告訴されるであろう。教訓を見つけようとする者は、追放されるであろう。プロットを見つけようとする者は、射殺されるであろう。」

マーク・トウェイン 著 / 大久保 博 訳『ハックルベリー・フィンの冒険KADOKAWA〔トウェイン完訳コレクション〕、2004)

 アメリカで起こっていた『ハックルベリー・フィンの冒険』の検閲をもとに小説にしたのが、この『誰だ ハックにいちゃもんつけるのは』だ。ナット・ヘントフ自身はユダヤアメリカ人。もちろん人種差別主義者ではなく、ジャズを作り上げた黒人ミュージシャンたちに深い尊敬の念を抱いている。ヘントフは、この本や他の著作で、「ファースト・アメンドメント」を繰り返し言及する。《アメリカ合衆国憲法修正第一条》「ファースト・アメンドメント」はアメリカ合衆国憲法のなかで〈表現の自由〉を定めたもの。アメリカの自由のよりどころだ。

アメリカ合衆国憲法修正第一条》(信教・言論・出版・集会の自由、請願権、一七九一年成立)
 「連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律、言論または出版の自由を制限する法律、 ならびに国民が平穏に集会する権利および苦痛の救済を求めて政府に請願する権利を制限する法律は、これを制定してはならない。」

(THE EMBASSY OF THE UNITED STATES IN JAPAN , ”About America "
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-constitution-amendment.html )


 この本には、学校図書館からの特定の本の排除を訴える側の論理とそれに反対する側の論理、その衝突が起こした問題についてリアルに描かれている。著者ナット・ヘントフは、本の排除に反対する側に立って物語を語っているが、かと言って、排除を訴える側を悪役にしてはいない。悪役は、本の排除の訴えが起こらないように密かに図書館の本を検閲する校長だ。この校長の姿が、醜くまぬけに描かれすぎている観はある。

 ジョージ・メイソン高校の新学期。バーニー・ロスは17歳。生徒新聞「ジョージ・メイソン・スタンダード」紙の新入りの記者。友人ルークといっしょに登校中、女子生徒ケイトから、バーニーとルークは、学校図書館の司書カレン・ソルターズが辞職し、そのことに校長マイケル・ムーア、通称マイティー・マイクが関わっていたことを聞く。

 一方、新任の司書ディアドリー・フィッツジェラルドは歴史教師ノラ・ベインズから前任の司書カレン・ソルターズが辞職したいきさつを説明される。校長が生徒の保護者たちの学校図書館の蔵書への訴えを内密に処理するために、司書に当の本を閉架にするようにつぎつぎと命じ、その圧力についに、

 「本を人からとりあげるために、わたしは司書になったわけじゃないわ」

と叫んで辞職したのだった。

 さて新学期、ノラ・ベインズの歴史の授業で19世紀アメリカについて学ぶための副読本としてマーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』を指定した。このことに黒人生徒ゴードン・マクリーンと父親カール・マクリーンから抗議があがる。この本のいたるところに“黒んぼ(ニガー)”と黒人に対する差別用語があることと、黒人への差別が公然とあること、作中で人種差別が否定されていないことが理由だった。カール・マクリーンは『ハックルベリー・フィン』を授業だけでなく、学校図書館、学校のすべてのところから追放するように校長に迫った。

 ムーア校長はこの歴史教師ベインズに、この抗議から『ハックルベリー・フィン』を授業からはずして、おおっぴらにならないように処理するように言う。ベインズは

 「誰も傷つけない本があるんですか? あったら見せていただきます。そしたら、それは誰ひとりきちんと読んだこともない本だと証明してさしあげます」

と、『ハックルベリー・フィン』をめぐってあがった抗議を公にして判断を教育委員からなる調査委員会にかけるように訴えた。一方、学校図書館にある『ハックルベリー・フィン』を生徒にわからないように隠す、つまり閉架にすることを校長に命じられた司書ディアドリー・フィッツジェラルドも、

「本を隠し、それを捜しにきた子供たちに嘘をつくために、わたくしは司書になったのではございません」

と、はねつけた。教員と司書が校長に真っ向異論をとなえるとは、日本ではあまりなさそうだ。

 こうして、校長の願いとは裏腹に、ハックへの糾弾は表沙汰になっていく。かくしてジョージ・メイソン高校に『ハックルベリー・フィンの冒険』を置くことを認めるか否か、高校のホールで公開討論会が開かれた。教育委員会議長と調査委員会、教員、生徒と保護者、ほか街の多くの人々が参加しての討論となった。調査委員会は教員、生徒の保護者、弁護士、ジャーナリストなど。この事件は街中からアメリカ全国に知れわたる事件になる…。

 さまざまな民族や主義が存在するアメリカでは、本への検閲は日本よりもはるかに大きな問題だ。そのため、本を学校や学校図書館でどのように扱われるべきかを市民によって公に討論されている。公開と公正を理想とするアメリカのデモクラシーの現れだ。

 歴史教師ノラ・ベインズの言葉。

 「検閲を相手に闘うなら、はじめのはじめからのできごとをすっかり光の中にさらけだすことよ。そうすれば必ず新聞や、テレビや、ラジオがとりあげる。くりかえし、くりかえし、それをやる。マイティー・マイクが、今まで本を閉じこめながら、まんまと逃げおおせた理由はね。それを暗闇の中でやったからです。外にいる人間には、なにひとつ、わからなかった」

 バーニーも同じようなことを言っている。

 「虚偽に対する最良の方法は、はっきりそれを人目にさらし、明るい所にひきだすことだって」

 この本はまた「図書館に置く本はどのようであるべきか」という論争も扱っている。
だれが見ても正しいとする本だけを置くべきか。多様な意見の本を置き、読者に判断をゆだねるか。

 「時間は、よい本を読むために使うべきよ。よい本てのは、まぎらわしいことの書いてない本、事実を伝える本よ―事実だけをね」

 「まちがったもの、邪悪なもの、なにもかもひっくるめて授業にとり入れ、図書館におく。これは、教育の神聖な定義をけがすものです。ここにいる生徒は、一連の人間的学習の途上にある。ということは、教養を修得しようとしているのであって、人間の無知から生まれた病的な毒々しい汚物を身につけることではないのです…きみは、ユダヤ人虐殺(ホロコースト)などなかった、と書いてある本を、この高校で使うのを許すわけですか?」

 「まさにそのとおりです…そういう本も使う。そして史実とつき合わせてみる。生徒は恐ろしい事実に対立する虚偽を調べることで、ほんとうは何が起こったかをよりしっかりと把握できる。そればかりじゃない、非常に重要なことを学ぶことができます。ユダヤ人排斥者とか、あらゆる狂信者が、否定できないものをどこまでも否定しようとしているのを知るわけです。若い人が、このような病的異常を身をもって知るのは、有益なことです…選択の幅を狭めておいて、自由であれというのは無理です」

「自由というものは、ですな…。学んで身につけるものなのです。無秩序とは違うんですから。人間は年齢によって、程度の違うとが書かれていてもいいってことですか? もし、学校が、なにが正しいかを教えないなら…自由を持つ。われわれが後継者を学校に入れるのは、そのためです。ここにおられる生徒さんは、高校生ですが、わたしが申したような本は、ちょうど伝染病の保菌者が隔離されるように、学校に入れてはいけないのだ、というような重大な選択をその時どきに責任をもって行えるほどには成長していないのであります」

「自由って、人をまどわせる言葉です。危険な言葉にもなり得ます。思考の自由という名のもとで、学校は、黒人やユダヤ人や東洋人への偏見を押しつけて、子供の精神を毒していいのでしょうか? 思考の自由とは、学校では、先生はどんなことを言ってもいいのでしょうか? 学校で使われる本に、どんなこ学校なんか、なんのためにあるんですか? そして学校が、何が正しいかを教えるためにあるなら、当然、この本は間違っている、有害である、教室や図書館では許されないと言明する権威を持つべきです。それを検閲と呼ぶひともいるけど、あたしは、それこそ、言葉遊びだと思うわ」

 司書ディアドリー・フィッツジェラルドは「知る自由」と「思考の自由」を主張する。

 「自由は危険なものであり得ます。実際にとても危険です。けれども、自由の反対はさらに危険です。何千倍も危険です。国民が、何を言っていいか、何を読んでいいか、悪いかを政府が決めている、いろいろな国をお考えください。自分のほんとうに内面的な考えまで、人に知られ、それを踏みにじられることを国民が恐れているたくさんの国をごらんください。
 わたくしたちが、このような絶望と束縛の中でくらすことがないようにと…この国を建った人々は自由を選んだのです。危険を承知の上で選んだのです。建国者たちが選んだ自由の、最も危険な部分は何だとお考えになりますか?
 建国者たちは、それからのアメリカ国民が、さまざまに異なる意見のるつぼの中で、自分自身で決定できると信じていたのです。たとえ、言論の自由を利用して、この国の政府が何を読んでいいか悪いかを決めてしまうような国にしてしまおうと誘惑する人間が現れた時でも、なお、自由であり続けることができると信頼したのです。
 建国者たちの、わたくしたちへのこのような信頼、合衆国憲法と、権利宣言を書き、制定した人々のこのような信頼は正しかったわけです。わたくしたちは、今も、自由ですから。今回の闘争も、まったくそのためのものです。つまり、わたくしたちは、これからもずっと自由であり続けるか? という闘いです」


 そして、学校は何が正しいかを教えるためにあるのであって何がまちがっているかをわざわざ見せるためにあるのではない、たとえそれが自由を制限することになっても学校には正しい本を置くべきでまちがった本は排除すべき、という意見について、

 「それは独裁者の教育理念です。わたくしたちのものであるはずがない。この国では、考え方を制限するのは、先生や司書の役目ではありません。むしろ、その役目は、その考えを、よいものも悪いものも、説明し、分析して、生徒が将来、自分でそれができるようにすることです。生徒たちが自分の考え方をつかむように導くことです。これがなにが正しいかを教えることではありませんか? 思考の独立ということを教えることだからです」

 この言葉は、作者ナット・ヘントフの主張そのものだ。アメリカ建国の精神、自由と民主主義への賛同と、知る自由と思考の自由を求める精神、そして良書主義や検閲への反論がこの言葉にはある。

 この本は残念なことに日本語訳は版元品切で絶版状態。図書館で借りるか古本か原書を買うかになってしまう。原書は紙媒体でも電子書籍でも入手可能。たくさんの人々に読んでほしい本のなので日本語訳を再発行してほしい。

(書き下ろし)