本のいぬ

本のあいだをふらふら歩く、 のらいぬ澤 一澄 (さわ いずみ)の書評ブログ

『有害コミック撲滅! アメリカを変えた50年代「悪書」狩り』 デヴィッド・ハジュー 著 / 小野 耕世 / 中山 ゆかり 訳

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有害コミック撲滅! アメリカを変えた50年代「悪書」狩り
デヴィッド・ハジュー 著
小野 耕世 / 中山 ゆかり 訳
岩波書店
5,040円

 今、アメリカの映画ではバットマンなどアメリカンコミックから生まれたヒーローが活躍している。キッチュだけどかっこいいヒーローたち。彼らが生まれた1930年代から50年代初めはアメリカンコミックの黄金時代だった。コミックブックは安い紙に鮮やかな多色刷りで印刷され、町の雑貨屋に子どもも買うことができる10セントで売られていた。当時子どもだった人でコミックブックを懐かしむ人は多い。

  コミックブックは若いアーティストたちが出版社のなかのチームで製作していた。彼らは斬新なコミックを作るため熱意を傾けていた。ヒーローものから犯罪もの、ラブストーリーからホラーへとつぎつぎ新しいコミックを作りだした。第二次世界大戦前後の偽善的で窮屈な世の中で、アメリカンコミックはあらゆる権威や品格を蹴飛ばし、笑いのめし、奔放な世界を読者に広げて見せた。

 そんな出版物に子どもが熱中するのを厳格な規律と品位を重んずる人々が黙って見ているわけはない。「子どもたちを非行へ誘う俗悪でおぞましい病魔」と作家や教師、精神学者、保守派議員が排斥しだした。もっとも彼らはコミックブックなんて読んだこともなかったのだ。学校では教師と子どもたちがコミックブックを集めて燃やす焚書運動が盛んに行われた。子どもの頃、これに参加した人はひどく後悔した思い出を語っている。

 もっとも黙っておとなのいうことを聞いている子どもばかりではなかった。ある14歳の少年は新聞に抗議の手紙を送った。
 「守勢にまわっているぼくらは、ぼくらを攻撃する者同様に真剣にならねばならない時期にある。ぼくらの側がこの戦いを求めたわけではないが、しかしぼくらは、この戦いを集結させるべく挑んでいる。何百万という子どもたちの運命は予断を許さない状況にある。子どもたちが出会い、そして愛するようになった読み物を彼らが提供し続けるために、ぼくらには負うべき義務があるのだ。
 ワーサム博士(コミックブック撲滅を主導した有名な心理学者)は、おとなについては、それがどれほど低俗であろうと。不道徳であろうと、おとなであるというただそれだけの理由で、好きなものを読む完璧な権利をもつべきだと信じているようだ。他方、子どもたちは、無害な無菌状態の世界で生きる以外は、何から何まですべて完璧に無知の状態に留め置かれるべきと信じている。その世界のワーサム博士は、子どもたちを誕生から成人にいたるまで、囚人として閉じ込めておきたいと考えているのだ。これらすべてがもたらす純然たる結果は、子どもたちがいつかおとなになったときに、まったく異なる種類の世界へと押しこまれるということだ。おとなになった彼らは、暴力と残虐の世界、強制と競争の世界、そして非人間的な世界で、自分自身の闘いや怖れや不安や困惑と戦わなければならなくなる。
 子どもたちは、自分たちが何を望んでいるかを知っている。子どもは、自身の心を持ち、またいかなるものに対しても非常に明確な嗜好をもった、ひとりの独立した人間である。その子どもたちがたまたま自分の意見に同意しないからというだけ理由で、ワーサム博士は、子どもは判断のしかたを知らないのだと言う。今こそ社会は眼を醒まし、子どもたちは自分自身の意見を持った人間であること、そして何に対しても意見を訊ねられることもなく、ただそこかしこで命令されるだけの、脳みそのないロボットではないという事実に気づくときなのだ。」

  だがコミックブックへの圧力はますばかり。売上も落ちていった。コミック出版各社は、この魔女狩りを逃れるためにを厳しい自己検閲を行って健全な本として認められようとした。だが結局、売上の減少はとどまるところを知らず、コミックブックは廃刊。アーティストたちは失業した。

  だが、1960年代に小出版社などが発行したアンダーグラウンドコミックスがブームとなり、自由闊達なコミックが甦った。今日、再びコミックヒーローたちが活躍している。本をなくすことはできても、物語が育んだ夢は死ぬことはないのだ。

(掲載:望星2012年11月号、東海教育研究所に大幅加筆)